2012/03/31

大きさについて / 定規で考える【浅井 雅弘】



webへの窓口は何気なく見つめているこのディスプレイである。

このディスプレイを通して見る世界の大きさについて。





web上で直接10cmと指定した黒線。




下の定規の横幅は567pxというサイズで設定してある。(pixel
ディスプレイの解像度が96dpiであるならば、(解像度
567÷96=5.90625インチとなり、ほぼ15cmとなる。


これは、10cmの線なのだろうか?
これは、15cmの定規だろうか?

感じる服 考える服(神戸ファッション美術館)をみて /川久保玲はブランド名をアレにしたけど、ケイスケカンダは自分の名前をブランド名につけているのに賛成【文=佐藤匡将】

2012年2月1日に発売されたPenの表紙は川久保玲だった。彼女の意思を知りたいと、関心のある人はこぞってこの特集を読んだに違いない。有名無名に関わらず、ファッションデザイナーの多くが自身で立ち上げたブランド名にデザイナー自身の名前を使用する中、彼女のブランド名に、彼女の名前は入っていない。ただ彼女の名前を聞くだけでブランド名が想起されるのはすごいことのように思う。

感じる服 考える服 のあいさつに、『この展覧会は、新しい時代のリアリティを追求しつつ、ユニークなクリエイションを展開している10組のデザイナーの仕事を通じて、現在進行形の日本のファッションデザインの可能性を探るものです』とあるように、展示されているものそれぞれにブランドの個性が出ていたのだけれど、私はケイスケカンダが一番タイプだった。そして、10組のなかで自身の名前をブランド名に使用しているのはエイチ・ナオトケイスケカンダのわずか2名だけ。


ケイスケカンダは、ブランド名と自分の名前が一緒である必要が絶対にあると私には感じられた。「僕の服づくりにおいて、コンセプトやテーマは重要ではありません。女の子が、僕の服を着て笑ってくれれば、それでいいのです。」と断言している彼の服づくりに対する姿勢は、他のファッションデザイナーとは一線を画す。川久保玲をはじめとする、服というツールで社会批判を行うファッッションデザイナーとは明らかに態度が違うのだ。誰がつくっているのかが、ケイスケカンダの服において、とても大切であるように思える理由がここにある。

彼の服づくりにおける考えは、①ショップ ②カタログ ③プロジェクトにまで徹底されている。①『スナック あの娘と僕をつなぐ服』という名の直営店では、洋服屋ではなくスナックだと言い切り、お客さんと話すことを目的にしている。②カタログには、彼のデザインした服を着る人々が写っている写真を投稿により集め、それを使用して制作されていた。そこにはストリートスナップのようなものから、花火大会の記念に撮影されたような写真まであり、他のブランドが狙ったイメージを方向付けるよう意図的に撮影して見せてくる嘘の日常とは違い、友達のアルバムをめくるような親しみやすさをもつ日常性がそこにはあった。③進行中のプロジェクトの中には『卒業写真の宿題』と題され、現役高校生に募集をかけて、制服をケイスケカンダが制作し、それを着た高校生を写真家の浅田政志が撮影するというものまである。今回の展示では、実際に採用された関西出身だと思われる3人の女子高生がただしゃべっているシーンを撮影した映像作品もあった。その冒頭では、道ばたで3人が一緒に詩を口ずさんでいる。

さよなーらも言えないでー いやだなー

わたしー まだ女子高生でいたいよー

帰ってからフレーズを検索ワードに叩き込み、この歌が相対性理論の『地獄先生』だと知った。

ブランドに自身の名前をつけるのかコンセプトをブランド名にするものか、どちらにするかはなにをしたいのかで決まってくるようだ。川久保玲がコム・デ・ギャルソン(少年のように)とつけるならば、神田恵介はケイスケカンダと名付ける他にない。社会が大きな物語をもたない現在(いま)、それぞれが所有する小さな物語に対して服というツールでアクセスしていく方法が、ケイスケカンダを筆頭に増えて行くように感じた。


【案内】登場する関連ワードは私(佐藤匡将)のウォールに貼っていますので、興味のある方はご参照下さい。

2012/03/27

影が織り成す世界 /屋根の下で暮らす人々【文=小川真玄】

私たちは影の中で生活している。それは家である。家は自然環境から身を守るためにできたもの。シェルターである。このシェルターの屋根に注目したい。

屋根は影を作り出し人々の居場所をつくる。

千ヶ滝の別荘」/大西麻貴+百田有希



この作品はを見たときに私たちは「森の影に住む住宅なのかな」と思いました。住宅が森の中にやわらかく存在して影を作り出す。影がやわらかく人々を導く要素のひとつに感じられた。

影は私たちの生活を作る住宅そのものなのかも知れない。

2012/03/24

文字について/ 白で考える【浅井 雅弘】

「White」
白色を意味する言葉。

ただし、このブログ上に白色で書いてしまうと
White
このように見えない。

例えば白い紙に白いインクで描いたモノであれば
小さな差異が見えて文字は浮かび上がることが出来るだろう。

しかしWebでは同じ色同士であれば、差異が見えてくることは無い。


ただ、Webでは文字はドラッグする事によって、選択する事が出来る。
鑑賞者によって選択された白文字は、ハイライト表示され浮かび上がる。




2012/03/23

みえるもの/みえないもの(豊田市美術館)をみて /メインヴィジュアルに使用さていたのがどうして《イエスタデイズ・サンドイッチ》だったのだろう【佐藤匡将】

豊田市美術館で行われた常設特別展示「みえるもの/みえないもの」。このメインヴィジュアルとして使用されていたのが《イエスタデイズ・サンドイッチ》(1965−81年)という作品。これはボリス・ミハイロフによって撮影されたもので、旧ソビエト連邦時代に撮影したものを西側に移ってから二枚重ねで現像した作品。


「みえるもの/みえないもの」メインヴィジュアル


この展示では以下のように作品をカテゴライズして案内していた。


窃視症/ 観られることのオブセッション
私写真
日常性
時間・記憶
永遠・巨視的視点
みえるもの/みえないもの

イエスタデイズ・サンドイッチは「時間・記憶」にカテゴライズされ、クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(プーリムの祭り)1990年》、ローマン・オパルカ《OPALKA 1965/ 1-OPALKA 1965/1-∞ シリーズ》が同じくこのカテゴリーで展示されている。


《聖遺物箱(プーリムの祭り)1990年》




《OPALKA 1965》

上記の作品が時間・記憶」なのかはわかる。でもどうして、ボリス・ミハイロフの《イエスタデイズ・サンドイッチ》が時間・記憶」に置かれ、「みえるもの/みえないもの」のメインヴィジュアルとして使用さたのだろう。「みえるもの/みえないもの」にカテゴライズされた作品の中から選ぶのが普通だと思うのだけれど、どうしてなのだろう。





(案内)
登場する関連ワードは私(佐藤匡将)のウォールに貼っていますので、興味のある方はご参照下さい。

近い立体、遠い立体/日常の中から考える 2 文=松本萌子

草間彌生 「永遠の永遠の永遠」を見てきた。
(大阪の国立国際美術館で2012 1/7〜4/8)



2004年から2011年までの絵が中心の展示で、インスタレーションもあり、立体もある展示だった。
入り口からドットのFRPの立体、ドットのバルーン、床のドットのマル、ガラス面の赤いドットの群れ。



黄色に黒の線とドットのカボチャ、赤いドットに覆われた白い部屋に白いでかいチューリップもあった。
彼女の立体はドットと色で覆われていて、その物の形体よりも表面の色や模様の印象が強く残る。
形そのものの意味合いよりも形を覆っていく色や物の表面にどんどん転移していくドットの役割がでかくて、
視覚的な装置としての立体だと感じた。


近所のセブンイレブンで、ペプシのおまけでついてきたBE@RBRICK。


BE@RBRICKはキャラクター、ブランド、作家とコラボして
クマの形をベースに表面のプリントが変化する。
形はクマなのに、ブランドものになるし、キャンバスにも人にもなるしロボにもモンスターにもなる。
立体なんだけど「BE@RBRICK」の特徴はその表面にある。
「表面」の変化で色々なものになることができる。

この2つの立体は、やりかたはちがうけど
『立体での表面的な色や面の表現で形以外のことを表現している』ってことに気づいた。

「彫刻」ってくくってある物は色を使わないものも多くて材料そのままの表面だったりする。
でも、表面を覆いなおすことも、素材そのままにしとくことも「表面」についての問題だ。
どんな物でも透けてない限り内側は見えないし目でみえるのは表面まででしかない。
立体の「表面」は、どんなに中に身がつまっていたとしても、
その物の意味や意図という内容(中身)を表現してしまうということになる気がした。

(2 表面)


2012/03/20

影が織り成す世界 /すべてのモノに存在する意味と距離 _ 2 【文=小川真玄】


影は暗闇の中にも存在します。それは影という自分です。

私たちは目を閉じて寝ます。暗闇の世界へと移行し、夢を見始めることで新たな自分と出会うことになります。
夢は孤独で怖い存在。だけどどこかあたたかくて居心地がいい空間です。

影はとても孤独です。けどそこにはとても居心地のよい空間が広がっているのではないでしょうか。


ここで一つの映画を紹介します。
鉄コン筋クリート

この映画に出てくるシロとクロの関係は「夢」と「現実」そのものではないかと考えます。
シロ_夢。
クロ_現実。

互いに孤独でそれぞれの世界に住んでいます。その中で光を受けていないシロはとても孤独です。ですがクロがいることで自分という存在を再発見し、自分という存在を成り立たせているような気がします。またクロもシロがいることで心の支えができ互いによき関係がここでは築かれているのではないでしょうか。

私たちの影という存在はどこにいてもいつも一緒にいます。
影は私たちの夢であり、心の支えでもあるのではないでしょうか。

宣言:いとうみか


世界がもし三等身だらけだったら、ファッションはどうなる?
キャラクターはどこまでファッショナブルになれる?

ふとした疑問から浮かんだ未知なる可能性。

日常世界でなじみ深いものを題材にし
"キャラクターだからこそ着こなせる"をコンセプトに
キャラクターの個性(かたち)を活かしたファッションデザインを提案したい。

非日常世界のキャラクターをファッションの新境地へ。


2012/03/17

宣言:藤井雄一朗

三つのことを考えていきたいと思います。

・建築という世界そのものについて
・建築と自分の向き合い方について
・建築と生活のふるまいについて

難しいことを云わずして、伝えるということに努めます。
そして、時々脱線してみせます。

建築というもので、建築ができることで、世の中の平均値をあげる。
そんなことが出来れば、尚良しです。

以上、まずは柔な宣言からの思考と実行です。

2012/03/16

解剖と変容(兵庫県立美術館) /チラシのデザインと実際に行われていた展示方法のギャップ【佐藤匡将】

正規の美術教育を受けていない人が自発的に生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない絵画や造形のことをアール・ブリュットと呼んでいる。画家のジャン・デュビュッフェが1945年に考案したカテゴリーである。



兵庫県立美術館で3月25日まで行われている企画展のタイトルは「解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠」。チラシでは「アール・ブリュット」という単語が小さくあまり目立たない。同じ大きさでプルニー&ゼマーンコヴァーの文字も表記されているのだけど、アール・ブリュットを目立たせた方が人は入りそうなのにと、不思議に思った。

会場に入ると「はじめに」という文章の中でアール・ブリュットについて言及され、今回の展覧会の出品作品は、すべてフランス、パリのabcd(art brut connaissance & diffusion=アール・ブリュット:理解と普及)コレクションの所蔵作品であることと、abcdの略歴が紹介されていた。やはり展示を見る前にアール・ブリュットは押さえておくべきワードのようだ。


ひとつ目のフロアには、プルニーの作品とゼマーンコヴァーの作品が左右で区切られて一緒に展示されていた。作品よりも目立つように、2人のプロフィールが壁に貼られている。あまり広くはないフロアにわざわざ、いっぺんに2人を紹介するのには意図があるのだろう。そのフロアを抜けると今度は1人の作品をひとつのフロアで紹介するのが続き、広いフロアでは左右で区切って2人一緒に展示していた。

最初のフロアで2人の作品を一緒に見せ、その作品を見せる前にアール・ブリュットと2人のプロフィールが目につくように配置していることと、チラシでの「解剖と変容」が目立つようにデザインされていたことへのギャップが気になった。チラシを見る感じだと、アール・ブリュットや2人の背景を意識した状態で作品をみると、それらの情報が2人の作品を見る上で邪魔な情報であるから、まずはなんの偏見もなしに作品(「解剖と変容」)をみてほしい。というような意志を感じていたので、そう思った。


プルニーの作品は創作(自己探求?)への欲求がストレートで可笑しなユーモアを感じ、ゼマーンコヴァーの作品は(強烈な母性という名の)ディストピに生える植物(生命体?)に見え、近づくものを全て食ってしまいそうなエネルギーを感じた。タイトルが「解剖と変容」であるために、どちらかが解剖でどちらかが変容なのかと思っていたけれど、2人で行われている展示に対してのタイトルなのであって、作品を単語で形容していたわけではないのだろうと感じた。

宣言:佐藤匡将


はじめに

これといった用事がないにも関わらず会って近況を報告してお別れをする。気心の知れた友達に会う時、特定の理由など必要ありません。現在の私たちは直接会わなくともSNSにアクセス(訪れ)さえすれば、今ここ、息をすって吐いているこの世界で、いったい何をしているのか書き込まれる範囲で知ることができます。スマートフォンを使うことによって持て余した少しの時間をそちらの世界で過ごすことが増えた人は私だけではないはずです。


何かの情報を手に入れる為というよりもなんとなく利用し、なんとなく利用しているのだけれども、自分にとって意味のある情報、関心のある情報との偶然な出会いを期待してしまいます。それはまるで、見たい番組があるわけでもないのにザッピングしたりスイッチを入れたまま垂れ流しにしたりしているテレビのようで、目の前を通り過ぎる情報に関心がなくともただなんとなく見てしまう。目の前に表示されている話題に対して「コメント」をしたり「いいね!」と意思表示をしたりしながら1人でテレビを見ている。1人でみているはずなのに友達(の友達を含む)と一緒に見ているような感じにさせてくれます。


21世紀版テレビのように感じているこの場所で、体験したり考えたりしたことを、それらを考える際に活用したURLやwebページ、画像や動画などを、私の友達のニュースフィードに垂れ流していきます。私はいつの日か興味や関心事が重なる方達から特定のチャンネルとして認識されることを望んでいます。

2012/03/15

宣言文について /宣言文で考える【文=浅井 雅弘】



webの基本構造であるhtmlにも宣言文がある。
以下のドラッグされた部分。



その宣言をしないで先ほどの宣言文のページを見てみると、こうなる










確かに宣言は削除した。





が、ほとんどそのままに再現されるだろう。



ちなみに、何一つ宣言をしない文章だと、こうなる。







example Art  >>>>>>>> exonemo :DISCODER (1999)

宣言 / webについてwebで考える:浅井雅弘

webって何だ。



いつの間にか当然のように使っているけれど、

webって何だ。



まず物質ではないし、かといって空想上の産物とも違う。
映像や画像、あるいは数字と言えばそうでもあるけれど、
ユーザーが関わってくる事や、果てのない拡がり方こそwebの本体だろう。

そこに確かにあるらしいけれど、掴むことが出来ない感じ。
このコンテンツはそんなwebについて考えるものである。

考えるといってもwebを理解する事とは違うのかもしれない。
見方を変えることで思わぬ発見をしたいのだ。






webについてwebで考える。

その宣言である。






2012/03/14

近い立体 遠い立体 /日常の中から考える【文=マツモトモエコ】


私はオモチャやフィギュアが好きで気に入ったものがあれば買ったりする。
ふりかえって自分の部屋を見てみる。
オモチャといっても固定のポーズのものや固形の物とか、置いて眺めて楽しむものが多い。
そういう物のシチュエーションを自分で見立てて飾るのは楽しい。



部屋の本棚の一番上に置いたグリーンアーミーはリュックをぎゅっとにぎって、
グリーンアーミーにはめずらしくまっすぐ立っている。
このポーズのせいか置く場所によって、
逃げたか生き延びたかでやっと目的地に着いて一人山から下を見ているようだ。

いわゆる彫刻とかは見るだけで鑑賞する時は触れないものが多い。
最近は触ることを目的にしたものもあるが、
せっかく立体物だからさわってもいいのにと思うこともある。
でも逆に触れない所にあるものはどうだろう。

http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=3

金沢21世紀美術館の建物の上にある、
ヤン・ファーブルの「雲を測る男」(制作年:1999)という作品。
全身金ぴかの男が高い所でさらに4、5段くらいの脚立にのっていっぱいに腕をのばし長い定規をもちあげている。

そこまで上がってその低さの脚立にのる意味あるのか?と思いながら、
それでも雲に少しでも近づいて測ろうとしているのだと思うとなんともいえない気持ちになる。
前向きに少しでも近づいて測ろうとしているのに、
それでも雲をはかるという自力ではできないことをやろうとしている行為が、
実現の難しい夢に向かう態度なのか、
それとも空想にひたって現実を見ていないということなのか、
いろいろ考えることができるなと思う。

ヤン・ファーブルのこの「雲をはかる男」のようなシチュエーション、
場所や空間のなかで見る人に想像させるような見せ方は、
見る人が大きいスケールに引き込まれ作品のイメージを膨らませることができる。


作品にもよるだろうけど、どんな所に置いてあるのかは制作者の意図がある。
ここに置いたらこう感じる、とかこれと組み合わせたらこんなシチュエーションになるなぁとか。
作品解説を読めば情報としてはいろいろ知ることはできるけど、
場所やポーズから読み解いていくことはとてもおもしろい。

(1 シチュエーション)

宣言:マツモトモエコ


「彫刻」って、名前だけ見れば『彫って刻むもの』なのに
彫っても刻んでもないものでも彫刻なのか。
とにかく「彫刻」って身近な物ではないなと思う。
そんな中まずは立体の物について考え、
日々の中にある立体物で遊んだりしてみて、
立体のおもしろさを再確認していきたい。

影が織り成す世界 /すべてのモノに存在する意味と距離【文=小川真玄】


影は物体と光との関係により発生するもの。
影の中は意味が存在し影を通して私たちに語りかける。
それらのエレメントが存在することで私たちに影の世界というものを創造させるのではないだろうか。

ここで一つの絵を紹介したい。



□キリコ (ジョルジョ・デ・キリコ 1888-1978 イタリア)
「街の神秘と不安」(1914年 油彩)


私はこの絵から影の世界を思考する。
この絵は影が映し出す悲しみが存在していると私は思う。
それは光が強く建物の外壁を照らし、また遠くへ導こうとしている「光の強さ」にあるのではないだろうか。その中には悲しみに似た要素が存在しているからだと思う。

このように空間に対する影の影響は大きいと考えられる。そこで私は空間の影に対する新たな世界を模索し、発生した世界を建築に落とし込んだ時、影という空間はどのような変化を及ぼすのか。また空間での世界とは一体どのようなことが思考できるのだろうか。

例えば庇(ひさの下の空間。
□桂離宮 新御殿


庇は内部と外部の線であり、壁でもある。それは影や庇といった建築のエレメントによって空間の仕切りをつくっているからではないだろうか。
また存在する影のあり方は壁や線といった仕切るものの他にも時間軸で空間内を侵食し、内外の関係に変化を及ぼすものでもある。

影の存在は建築のひとつのシーンを見てもとても面白い世界の変化を見せていると私は考える。
影は光と物体が存在することで世界を作り出す。
その世界は空間の仕切りの他にも、身体に及ぼす冷たさや暗さといったものを含め、影という世界には大きな魅力が存在しているのではないだろうか。

2012/03/13

宣言:小川真玄

建築は人間がいて初めて成り立つものである。

建築には人の記憶の断片が多く存在します。それらは私たちに語りかける本のように。またページを更新するかのように。

私は記憶の断片を一つの要素として考え、建築的に思考し表現することで記憶の断片の意味、そして人間と記憶の断片との距離を近づけていこうと考えます。

それは建築での身体と記憶の新たなスケールへと展開していきます。

これらの要素が存在する建築で思考することで建築と身体、記憶との関係を考えていこうと思います。

2012/03/12

チームで行うブログ


はじめに

このブログは、 [OoooO]に関するお知らせを発表する場であると共に、 2012年より「ページで参加」をして下さる方々に、各々のテーマ(課題)に対して向き合った記事を作成し投稿して頂く場としても活用していきます。各々のテーマにつきましては、それぞれが宣言と題して文章にしておりますので、そちらをお読み下さい。

他者が簡単に訪れることの出来るこの場所で、週に一度は投稿することを最低のペースとし、個人がそれぞれのページを持たずにこの場所に集い投稿を行う理由は、チームでひとつのことを行うことで得られる様々なメリットを期待してのことです。考えるメリットはそれぞれ違うことかと思われますが、このブログを一種の勉強会と位置づけます。ページ参加は希望者が行えるものではありませんので、興味のある方はご連絡下さい。

ブログで投稿されていることとの関連性が有る無しに関わらず、誌面は誌面で、ページ参加者の各々のテーマを面白くお見せできればと考えております。

どうぞよろしくお願いします。